大学の時は法学部だった。

ゼミは刑法ゼミ。
教授の専門は「死刑存廃」だった。
大学の時はこの問題には全く興味が沸かず(自分の中では死刑存続で決まりきっており反対論への容認の余地が無かった。)殆ど研究をしなかった訳だがー


今になって、ふと、興味が沸いたのでまとめてみたいと思う。



そもそも、法学の課題は「他人が他人を裁くこと」の不安定さ、にある。
裁判官も、検察官も、弁護士も、被害者も、加害者も人であるからにして、間違いというものは必ずある。

「法学の研究」については大部分が、その、ゆらぎについての研究なのではないだろうか。
(例えば、権力側の違法行為、法律自体の違法性などなど)

自分などは、確立統計論的に「間違い」もあってしかるべきであるし、間違いを考慮してその判決や、司法システムまで言及するのは如何か?とも思うわけだが、そう言い切ってしまうと法学的な進歩や、研究自体の存続に関わる訳でその部分の感情は一切無視するとして…
この死刑存廃問題というのは現在、法学者だけではなく人権擁護団体や宗教問題まで関わっており、意見も複雑、多様化の一途を辿っている。
自然科学、善悪論、道徳論まで含み単純に法理論だけで片付けることの出来ない問題になっている。

人類における死刑の歴史は長く、日本においては平安時代に自然科学的な理由で一時死刑が停止されたこともあるが、基本的には存在していたと考えていいだろう。
数千年単位で施されているシステムであるわけで基本的に存廃問題は、死刑反対側からの反対論を展開する形で議論されるべきと考える。

では、何故、死刑廃止なのか。

犯罪抑止効果の不確かさ
刑法は罰を持ってして罪を犯す事を抑止しようとする働きがあるが、死刑は他の刑に比べてその抑止効果が低いのではないか
まず、死刑は犯罪を抑止するために設置されているのだろうかという点だが、人類の歴史上の観点から見て死刑が犯罪を抑止する働きをしたのは頻繁に死刑が行われた中世だろう。
現状、死刑廃止論や人権擁護が声高に唱えられれば唱えられるほど死刑の犯罪抑止効果は低くなるだろうと推測される。
また、現代の死刑自体が犯罪抑止の為に設置されているのかについては、「死刑実施の秘匿」や「死刑判決の消極傾向」など観点から見て、犯罪抑止のためでは無く応報の意味合いが強いと思われる。

冤罪であった場合取り返しがつかない
もし冤罪であった場合他の刑に比べて取り返しがつかない
これは冒頭で語ったように裁判官、検察官と言えど人であり必ず間違いはあるからにして、冤罪もありえる。
むしろ、冤罪を恐れて法を施行する事を恐れるというのは根本的な「他人が他人を裁いてよいのか」という問題になるが、これについては他に人を裁く手段が現在無い(過去には自然科学的な見地で裁く文化もあったわけだが)以上論じるべきではないと思う。(他の手段、例えば完璧な超巨大コンピューター等があればまた別だが)

死刑廃止は全世界的な動向である
現在死刑を廃止してる国、死刑を停止している国は130カ国にものぼり、比べて死刑を実施している国は60カ国強である。また、先進国程死刑廃止の風潮が強い
これについては宗教観や、風土、文化の違いが強いが確かに全体的にそのような風潮にあるのは間違いない。
が、実は停止した国、廃止した国でも死刑復活の議論が盛んに行われている。
また、死刑を廃止した後、凶悪犯罪率が下がったという報告もあれば全く同じ調査(地域、年代)なのに凶悪犯罪率が上がったという報告も提出されているように、多分に恣意的であり死刑廃止後の犯罪率の動向は不確かである。

死刑は拡大自殺を促す
確実に死刑になるために凶悪犯罪を起こし死刑による自殺を行うものがいる
近年の凶悪犯罪の傾向では確かに、そういった拡大自殺目的の凶悪犯罪が出てきている。
しかし、そのような拡大自殺をする凶悪犯罪者はごく少数派であり、冤罪と同じく、既存のシステムを転換させるような説得力を持っているとは言いがたい。

人権擁護の観点から見て廃止するべき
国家による殺人は個人の生命権を阻害している
日本における死刑は、概ね、殺人罪、強盗致死罪、強盗殺人罪、強盗強姦致死罪等、殺人を犯しているわけであるから既に他人の生命権を阻害している個人である可能性が高い。

死刑は国家による殺人である
市民を、国家はその強権を持って殺人している。
この理論が通るのであれば、刑務所は監禁罪等を犯してるという理屈になります。
司法そのものが立ち行かなくなります。

以上、個々の法理的な意見からは反対も容易なのですが。
人権的な意見や、自然科学的な意見にまで及ぶと途端に曖昧になってくる。

死刑がこの上もなく残虐、非人道的かつ屈辱的な刑罰であり、生きる権利を犯すものである…
アムネスティインターナショナルのストックホルム宣言で死刑を人権的な見地によって反対している
特に初文の「死刑がこの上もなく残虐、非人道的かつ屈辱的な刑罰であり…」が「想起し、」と結ばれていることからもあくまで常識や、道義的、哲学的な意見としてということだと思います。
死刑が残虐かどうかについては応報という観点からすれば、これもまた残虐であるといえます。
ただし、近現代は、死刑が権力側からマイノリティに向けての抑圧に使われてきた背景もあり、そのような観点から考えると現在の死刑は抑圧に使われている訳ではないのでストックホルム宣言の一文である「死刑に対して全面的かつ無条件に反対すること」というのは移り変わる世相からしても一貫して通用するような主張ではないのでは…と思います。

宗教的な観点から死刑に反対する
○○教では死刑は認められない
特に、今日までの宗教弾圧や虐殺での殺戮規模の大きい宗教に限ってそのような主張を声高に唱えているように見えますが…(魔女狩りと称して火炙りにしたりして今更何を言うかとも多々思うところもあるわけだが)
宗教的な観点から反対といわれれば、反論するのも難しいですね…
そうですか、反対なんですかwそれはしょうがないですね…みたいなw


このあたりは考え方なんで難しいところですね。

っと、最後はぐだぐだになっちゃいましたが、結局のところ、キーワードは「人権」とか「性善説」とかのあたりにあると思います。

基本的人権とか幻想だと思っているし。
平等とかありえないと思っているし。
人は生まれながらにして悪いものだと思っているー

自分はやはり死刑存置派です。
遅まきながら教授、こんな感じでいいですかねww


あと、本当に理解できないのは「死刑廃止論」が人権派や、宗教活動、左翼思想の売名行為に直結しているところです。
単に、偽善者からの集金活動として陳腐化しているところに、その存在自体に疑問を感じます。